2011年3月11日昼過ぎ、曇り空に晴れ間が見え始めるなか、福島に暮らす人たちは毎日の営みを続けていた。年度の切り替わりであるこの時期、卒業式も間近に控え、どこか華やいだ雰囲気ではあったが、いつもと変わりない日になりそうだった。14時46分、大地が揺れた。地震はめずらしいことではない。日本人はしっかりと備えをしている。しかし、すぐに揺れは、経験したことのない大きさとなり、人々の暮らしを大混乱に陥れた。すさまじい地震によって、家具や調度品は床に叩きつけられ、交通は遮断され、そして、電気、水道が止まった。夜になり、多くの住民は、水も電気もなく、つまり、照明も暖房も電話もテレビもないなか、激しい余震に揺さぶられ続けた。情報を手に入れる手段が限られていたため、福島県の多くの人たちは、状況の全体像がわからないままでいた。沿岸部は津波に襲われ、暮らしが跡形なくすべて押し流され、福島第一原発の非常用の原子炉冷却装置も水に沈んだのだ。のちに、人びとは、3基の原子炉が損傷し、深刻な放射能汚染がもたらされたことを知ることとなる。

この、4年前の自然と科学技術の同時多発災害の傷跡は、いまだ癒えていない。海岸線に残る津波の恐ろしさ、立ち入り禁止区域の荒涼とした様子は、今もなおはっきりと目に焼き付いている。そこには、避難した人たちの暮らしの痕跡、家畜、それぞれの持ちもの、道路…。すべてがこの世のものとは思われない、背筋が凍るような空気だった。しかし、立ち入り禁止区域の外では、一見、ほとんど変わらぬ日常生活が営まれているように見える。ところどころで、モニタリングポストが空間線量を測定し、リアルタイムで1時間当たりのマイクロシーベルトの値を表示している。除染作業員が表面土壌を取り除き、袋詰めし、運び出されるまでの間仮置き場に集めている…。これは、これまで通りの日常なのだろうか? いや、違う。

まだまだ、問題は山積みになっている。何とか自分たちの生活を取り戻そうと戦い続けて来た4年を超える年月の精神的疲労、まだ避難先から戻れない人たち、自分の家に戻りたくても戻れず、仮設住宅や仮住まいで生活を続ける人達、政府からの支援に頼らざるを得ない人達の困難は消えていない。津波によって、一瞬にして1万6千人の命が奪われ、5年近く経った今でも福島第一原子力発電所からの放射性降下物が健康に被害を及ぼすという懸念が、人々の日常生活への復帰の足かせとなっている。

チェルノブイリ事故から約30年後の福島の悲劇的な事故が、私たちにはっきりと教えているのは、放射線防護に携わる人達はあらゆる面から放射線事故を考えていかなければならない、ということである。なぜならば、人生は健康のためだけにあるのではないからだ。このパラダイム・シフトは、4年間にわたる実り多い放射線防護の専門家と自分たちの生活を取り戻そうとする福島の住民との間で続けられてきた交流、とりわけ“福島ダイアログ・セミナー”から得られた経験のなによりも重要なことである。

3つの連続災害

2011年3月11日から16日までの間に、福島県民は巨大地震、壊滅的な被害をもたらした津波と想定外の3基の原子炉のメルトダウンを経験した。全く予測していなかったこの状況に人々は翻弄され、深い心の傷を負うこととなった。

2011年3月11日 午後2時46分震度9.0の東日本を襲った地震は今まで経験したことのない規模の地震であった。地震に続く津波は500平方キロメートルにわたって陸に押し寄せ1万6千人以上の命を奪い、福島第一原子力発電所 のディーゼル発電機をも全滅させた。

加熱した燃料棒のメルトダウンが1号機から3号機で起こり、大気に約52万テラベクレル(Tbq)の放射性物質が3月12日から3月31日の間に放出された。

出典:IRSN / METEOFRANCE

原子力発電所事故発生直後の数日間は、とりわけ困難な時期だった。ガソリン不足と公共交通機関の停止のため、家から自由に移動することが難しく、冬の寒さのなか、停電・断水と相まって、言葉通り「寒さのなか放り出される」感覚を、人々は抱いたのだった。

狼狽から怒りへ  

これまでの落ち着いた自分たちの生活が失われてしまったという感覚が強まるにつれ、多くの人にとって、当初受けた衝撃は、次第に落胆へと変わっていった。この状況から逃れることはできない、なすべきことの手がかりも見つからない、自分を信じることもできない、決断を下すこともできない。ささやかな毎日の雑事でさえ、そうだった。外出すること、帰宅すること、家の窓の開け閉め、飲んだり食べたりすること、子供を学校に送ること…。なにが安全で、なにがそうでないのか? 時が経つにつれ、くつろげるわが家が、見えない敵―放射能―に取り囲まれた、居心地の悪い場所となってしまった。

行政から時機を得た支援がないまま、日が経ち、緊急事態に対応できない行政に対して、住民の落胆は不信感になり、やがて、それは激しい怒りへと変わった。

街としてきちんと機能している伊達市や福島市からわずかの距離の場所にある、富岡、浪江、双葉、大熊といった、かつて賑わっていた沿岸の一帯は、悲痛な、荒れ果てた場所になってしまった。其処此処で、突然壊されてしまった家族の生活の遺留品が、痛ましく散らばっているのが見える。衣服、本、寝具、おもちゃ、台所用品、テレビセット、写真、家具…、楽しかった思い出の品々と悲しみが、言葉もなく無秩序に入り混じって地面に散らばり、静かな絶望の中で朽ちていく。

この間ずっと、メディアの報道は、原発の状況に集中していた。原子炉の冷却機能の喪失、衝撃的な3つの原子炉の爆発、放射性物質のフォールアウト、避難区域の拡大、避難区域に住んでいた人々の避難…。けれど、原発の近くに住んでいた人たちの苦難については、どうだったのか? 放射能で汚染された環境で暮らすことなど、予想だにしていなかった人たちのことは? 住民について、多くは統計的な対象として伝えられ、生活の自由を奪われたひとりひとりの人たちの、はかり知れない不安については、ほとんど語られることがなかった。

事故直後政府は以下の避難区域を設定し避難を指示 :

  • 3月11日 半径3㎞以内
  • 3月12日 半径10km以内、ついで20km以内

3月15日 半径20〜30kmの住民に屋内退避を指示。10日後、屋内退避指示は解除されたが、緊急事態発生時に自力で避難することが難しい人間は、この地域から避難するよう求められた。
その期間中、これらの半径30km以内の区域に居住していた人々は、推計約15万人である。
これらの区域は、後に政府によって、避難指示解除準備区域、居住制限区域、帰還困難区域に再編された。

出典 : 復興庁/www.reconstruction.go.jp – 在日フランス大使館の原子力部

事故後の福島における避難区域の変遷

暮らしを取り戻すことを求める

誰にとっても、放射能汚染による被曝は心配の種であったが、多くの人たちは、親戚や隣人とさえ、それについて敢えて語ろうとしなかった。放射能への知識もまったくなく、対処の方法も知らない人たちが、いったい何を語ることができたというのだろう? 多くの人たちが、外からの援助があることに空しい期待をつなぎながら、屋内に止まらざるをえない状況であった。しかし、時が経つに連れ、幾人かの、意思を持つ人々が知識と道標を求めて、立ち上がった。彼らは、それが自分たちの日常の暮らしを取り戻し、やがて通常の生活へもどるための唯一の方法だと気づいたからだ。これらの人々による、自分自身の生活をよみがえらせるための取り組みと道のり、その歩みが、この物語の中心である。

チョルノーブィリの教訓 詳しくはこちら

道を切りひらく放射線防護のアプローチ

安東量子は、避難区域に隣接するいわき市に住む、34歳(事故当時)のなごやかな女性である。彼女もまた、状況に正面から向き合うために、すぐに立ち上がったひとりである。自分の住む場所にとどまることが、どれだけリスクがあるものなのかまったくわからないなか、彼女は放射線の状況を知ろうと、ツイッターをはじめ、ウェブ上の情報を探し始めた。また、安東は、ソーシャルネットワークを通じて、福島の状況を心配し、彼女の試みを助けようと思っていた、福島県内、あるいは、日本各地の人たちと交流を持った。
安東は、ウェブで情報を収集している時に、たまたま、国際放射線防護委員会の出版物、ICRP 勧告111を見つけた。そして、このことはやがて、ICRP111の元となった、チェルノブイリ事故後のノルウェーとベラルーシの経験へと彼女を導くことになった。彼女は、大量の放射性物質フォールアウトをともなう過酷な核事故の災禍に直面せざるをえなかった、チェルノブイリ事故の人々の経験から、なにか学べることがあるのではないか、そう思ったのだった。

読んですぐに、安東は、この、これまでとは大きく異なるアプローチ方法は、福島の人たちにとっても大きな意味をもつと感じ、より多くの人に知ってもらいたいと思った。とりわけ、ICRP111勧告が強調するのは、毎日の生活のあらゆる面から放射線のリスクを考えるための測定の重要性であり、そして、その結果について、ともに状況を改善したいと思う住民同士で話し合うことだ。
これは、ひとりひとりの生活を取り戻すため、そして、最終的に日常へ戻るための、鍵となるステップである。

ベラルーシのエートスから福島のエートスへ

ETHOS  」は、欧州委員会(EC)が1990年代後半、チェルノブイリ事故後の流れで、ベラルーシの汚染地域の復興のために始めた試験的な取り組みである。そこでは、新しい、あらゆる面からのアプローチが試みられた。なかでも、安東さんの目を引いたのは、エートスの取り組みが、地域の住民の積極的な関わりを重視することだった。これは、汚染によって、影響を受け、脅かされてしまった、毎日の暮らしのさまざまな状況の中で、住民が、ふたたびよりよい生活を回復するための条件を整えるプロセスであった。福島中に広がってしまった混乱のなかで、彼女は、県内のコミュニティにこの取り組みは使えると思ったのだった。

安東は共同作業をはじめた。まず、「福島のエートス:ETHOS IN FUKUSHIMA 」というブログを立ち上げた。このブログは、被災地の状況をより理解しようと情報を求める人たちにとって、重要な拠り所になった。時間とともに、このブログは、地域での取り組みや、「福島のエートス」も第2回から参加した福島ダイアログセミナーの情報や資料を収録し、内容を充実させていった。そこにはまた、ベラルーシやノルウェーを訪問し、ダイアログセミナーで知り合った地域の農家やトナカイ生産者たちと経験を共有したことも報告されている。今では、このブログは、様々な文章や動画も収録し、原発事故以後の福島の生活状況に関する、他にないデータベースとなっている。

安東はホームページでこのブログの精神をこう要約する。

「原子力災害後の福島で暮らすということ。それでも、ここでの暮らしは素晴らしく、よりよい未来を手渡すことができるということ。自分たち自身で、測り、知り、考え、私とあなたの共通の言葉を探すことを、いわきで小さく小さく続けています。」

ウェブ:強い意志を持つ人たちをつなぐ、これまでにないツール

福島県の住民と日本の核物理学、それから放射線防護の専門家が、非常に早い時期につながることができたのは、新しいコミュニケーション・テクノロジーのおかげである。ツイッターのようなソーシャルメディアが、物理的に遠く隔っている個々人であっても、共感し、つながることを可能としたのである。
早野龍五は、反物質の研究を専門とする世界的に有名な物理学者である。彼は、東京大学教授と、スイスのジュネーブ近くにあるヨーロッパ原子核研究機構(CERN)の研究と、二つの仕事を股にかけている。
早野教授は、電離放射線による被曝を恐れる福島の住民を、とても気にかけ、ツイッターを使い、福島県内の放射線状況に関する情報を総合的に発信している。

2011年3月12日、14時22分: 福島第一原子力発電所に関する早野龍五の最初のツイート。

2011年3月13日: この図は3月12日15時36分に1号機の爆発後に記録された線量率のピークを示している。ツイート後ただちに9万人のフォロワーに共有された。

彼のフォロワー数は数日間で2500人から15万人へと跳ね上がり、現在もおよそ13万人のフォロワーを維持している。

その中に、福島県内のホールボディカウンター(WBC)の運用に携わっていた福島県立医科大学の放射線科の宮崎真医師もいた。同時に、子供達の健康について心配する母親たちとの交流を通して、早野教授は、科学的な測定の観点から考えると、その必要性は薄い、乳幼児向けのホールボディカウンターが存在しないことが、不安の原因であることに気づいた。そこで、早野が開発することを決めたのが、乳幼児専用のホールボディカウンター、BabyScan だった。第5回ダイアログセミナーから参加するようになった早野は、放射線と放射線防護に関する測定と知識の習得についての、福島高校の生徒たちとの共同プロジェクトを積極的に進めた。
インターネットは、また、海外と日本の個々人を結ぶ有力なツールである。ウェブを利用し、福島事故の後の生活状況の改善に積極的に貢献したいという、ひとつの共通する目的のもとに集まった新たなバーチャルコミュニティのメンバーの間で、日々の交流は急速に活発になっていった。

ふたつの思いに引き裂かれて

損壊した原子力発電所から20km圏内の住民にとって、選択の余地はなかった。政府の決定に従い、住民たちは、発電所から離れた仮設住宅や賃貸住宅などへ移り住むことしかできなかった。約9万人の住民が強制避難の対象となった。

帰るか、帰らないか?
福島県の住民202万4401人(2011年3月1日当時)のうち、約15万人が大震災、津波、福島第1原発事故後に避難した。以下の6つの市町村は全域が避難区域内にある。2013年8月および2015年1月に実施された調査によると、元の地域への帰還を考えている避難民のパーセンテージは以下のとおりである。

出典 : 在日フランス大使館の原子力部.

だが、立入禁止区域の外側の住民にとって、状況はまったく異なるものだった。決断は、自分自身が下さなければならなかった。とどまるか、出て行くか? そこが安全であるかどうか考えるための手段がない中、どうすれば、自信を持って決断ができるというのだろう? とどまることは、つまり、常にそこにある、侵入してきた目に見えない敵と向き合うことを意味する。また、同時にそれは、移住を決断した家族や隣人と離れることをも意味する。しかし、とどまることは、一方でまた、住み慣れた環境で、仕事を続け、生計を保つことができることをも意味するのだ。逆に、放射能の危険から距離を取るために、その地から離れることは、放射能を気にしないで食べ、暮らすことができる、より安心に暮らせる場所を見つけることを意味する。しかし、それは、とどまり続ける人たちのことを、見捨てるかのように感じられるだろうし、見知らぬ避難先で慣れない暮らしをはじめなくてはならないとなることをも意味する。ただ、居場所を見つけたいだけなのに。

子供をめぐる苦渋の選択

出て行く人にとっても、残る人に取っても、決断することは、心の痛みをともなうものだった。子供のこととなると、なおさらである。大槻真由美(39・事故当時)は 、伊達市の郊外の霊山町に住む。彼女は、夫とその両親とともに、二人の息子も一緒に家族全員でとどまることを決めた。現在、二人の息子、征也は8歳、小学校に通い、隼也は6歳、幼稚園に通っている。
PTA役員の大槻は、学校と幼稚園の運営にも関わっている。彼女は、集落の未来にとって、学校はとても重要だと思っている。「私たちの学校がある石田地区は、これまでも地域の伝統を守り続けてきましたし、とても小さな学校ではありますけれど、伝統文化をとても大切にしてきました。ここは都市ではなくて、田舎の小さな集落なので、学校の生徒数はとても少ないです。幼稚園もそうです。」

伊藤早苗(50・事故当時)は、もともとは南相馬市原町区に住んでいた。事故が起きてすぐに、彼女は、母親と娘を連れて南相馬を離れることを決めた。「事故が起きた時は、娘の中学校の卒業式の日でした。私の頭の中にあったのは、娘も守りたい、それだけでした。」 南相馬からの車での避難は、精神的にとても厳しいものだった。いったん、東京に仮住まいし、その後、最終的に、京都に落ち着いた。娘は、故郷や友人と離れることを嫌がり、母親と意見が一致せず、母親と日常的に口論が絶えず、勉強にも身が入らなかった。だが、時間とともに、生活は落ち着き始め、いまは、学校であたらしい友達もでき、外国語を勉強することに興味をもっている。

帰還

伊藤早苗は京都に住みつづけることを決めたが、門馬麻衣子(33・事故当時)はいわきの四ツ倉に戻った。彼女の家は、海岸からわずか300メートルのところにあった。かろうじて津波の被害は免れたが、子どもたちを連れて、追いかけてくる津波から必死に高台へ逃げたあのときの恐怖は、彼女に深く焼き付いて、今も離れることはない。
当時2才の男の子と11ヶ月の女の子の母親であった門馬は、二人の子供を連れ、夫を残して四ツ倉から避難することを決めた。薬局を営んでいる夫が一緒に避難してしまえば、店をたたみ、従業員を解雇することになってしまうからだった。

子供たちを守りたい、という責任感から、彼女は60km離れた郡山市へ向かい、そこで夫の両親とともに1ヶ月過ごした。その後、実家の両親から、もっと原発から離れた場所へ逃げるように勧められて、彼女は、郡山からさらに110kmの自分の故郷である宮城県仙台市に移った。仙台は、門馬の両親と妹がいる、安全で、そして、馴染みある場所だった。
夫が一緒であれば、仙台での生活は、ほとんど日常と変わりないものだったろう。だが、会いたい時に会うことができない、離れ離れの生活は、徐々につらいものになっていった。原発事故のせいで、仙台市へ向かう途中経路である南相馬といわきの間は迂回せざるをえず、3、4時間はかかったからだ。
「2013年の春、通行止めになっていた南相馬といわきの間の国道6号を通り抜けられる特別許可証がもらえると、知人から聞きました。そこまで状況がよくなっているなら、戻っても大丈夫だ、そう思って、帰ることに決めました。」門馬はそんな風に記憶をたどってくれた。

すれ違いの対話から…

日本のように、生活のあらゆる面が予定通りにすすむようになっている国では、想定外の事態はそうそう起こることではない。しかし、ひとたび想定外の事態が起きれば、計画をたてた者たちには、為すすべもなかった。東京電力福島第一原発事故発生後の時期の行政が、そのよい例だろう。行政は、事故によって一気に巻き起こった複雑で難しい事態の対応に忙殺されていた。
非の打ち所がない、完璧な商品やサービスに慣れている日本人にとって、緊急事態への対応能力が欠けていたことは、相互理解を強く妨げる原因となった。行政、そして、対応にあたる専門家に対する猜疑心と不信は、日増しに強まりながら広まった。市民に対する支援と助言を期待されながらもできなかった行政や専門家に対する市民の憤りは、非常に激しいものとなった。放射能から身を守らなくてはならない、一夜にしてまったく変わってしまった生活状況に対応するための、事前の備えはなかった。そのため、どうすればいいのかわからないという感覚に陥らざるを得ず、このことがいっそう怒りを強めることになったのだった。
このような社会状況の中で、市民と専門家、そして行政との間で話し合いをすることなど、まったく無理な話であった。誰一人として、聞く耳を持つはずもなかった。

…前向きのダイアログへ

放射線防護の専門家である多田順一郎は、ステークホルダーの間での亀裂と緊張が高まっていることを、非常に憂えていた。多田は、福島に移り住み、ボランティアとして彼の時間と経験を提供した。口には出さない深い苦しみ、疑い、誤解、猜疑心、そして、強い怒りが、人間関係に悪影響を与え、支援したいと望む人間たちの行動にまで制約を及ぼした。

2011年の秋、多田は、自分の懸念を、国際放射線防護委員会(ICRP)の日本人委員である丹羽太貫と、副委員長であるジャック・ロシャールに話した。ロシャールは、彼が積極的に推し進めたエートスプロジェクトの中で、ベラルーシのステークホルダーとの対話を行った経験を持ち、ここでも、現場主義的な取り組みを強く勧めた。ひとつのテーブルにすべての関係者が座り、それまで語られなかったことが語られるようになるまで互いに耳を傾け、そして、緊張をやわらげ、相互理解を深めるというやりかたである。

雪解け

それから数週間後、「チェルノブイリの教訓と ICRP 勧告」というテーマで、「第1回ダイアログセミナー 福島事故後の生活環境の回復」が開かれた。このセミナーはICRP の支援と、経済協力開発機構原子力機関(NEA )、フランス原子力安全局(ASN )、フランス放射線防護・原子力安全研究所(IRSN )およびノルウェー放射線防護局(NRPA )の協力により開催されている。4年間にわたり、これらの機関の専門家がこの最初の会合および、これに続く11回のセミナーに積極的に参加している。

最初のセッションでは、空気は重く、緊張していた。11月26日、27日両日の開催期間中、会場では、しばしば怒りと涙が噴き出す場面もあった。そのとき、不意に、8ヶ月の間、抑えてきた怒りと強い苛立ちが吐き出されたのだった。
この場は、とりわけ専門家にとっては、自らが試される場であった。なぜなら、彼らが職業として持っている一般的な知識を分け与えることは、もはや期待されてはいなかったからだ。
2011年11月から2015年9月までの全12回におよぶダイアログセミナー、一回、また1回、少しずつ、そしてしっかりと、専門家たちは傷ついた住民ひとりひとりの声を聞き、自分たちの知識と経験をその懸念に答えられるものとするよう、全力を尽くさなければならなかった。このプロセスは、通常考えられているものとは、まったく逆のものであった。フランス放射線防護原子力安全研究所(IRSN)の環境部門部長であるジャン=クリストフ・ガリエルは、彼が参加した2013年3月の第5回ダイアログセミナーについて、「視界が一変したようだった」と後に感想を述べている。

時間が経ち、テーブルにつく参加者が自分への自信を感じるようになるにつれ、互いに理解しようとする雰囲気になってきた。参加者は、自分自身の経験を語り、同時に、ほかの参加者の話からも、なにかを得るようになっていった。会場は、もはや、一方には知識をもった専門家がおり、もう一方には一般人がいる、という雰囲気ではなかった。福島の人々の生活状況を回復したい、輝きを失ってしまった、愛する福島のイメージを復活させたい。そういう共通の願いによってつながる、対等な立場の人間の集まりになったのだった。

福島ダイアログセミナーの6原則

  1. 招聘した参加者
  2. 国内外のオブザーバ(傍聴者)
  3. ファシリテーターとしてICRPメンバー
  4. 共通言語を使用する
  5. ダイアログのテクニックを使用する:
    • 第1段階:各ステークホルダーが順に1人5分ずつ発表を行う。これを中断させることは認められない。
    • 第2段階:様々な視点からの意見を聞いた後、各ステークホルダーがあらたに3分ずつ発表を行う。目的は、他人の考えを聞くことで、各自が考えを深めたり、自身の立場をより明確にしたりすることである。
    • 第3段階:全体での議論を始める前に、主な議論を報告者が概要にまとめる。
  6. すべての福島ダイアログセミナーをメディアに公開する。

第二章

新しい福島の生活を切り開く