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南相馬:
引き裂かれた街の傷

2015年5月1日現在

面積
人口
人口密度
避難者数

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 400 km²
. . . . . . . . . . . . . . . . .  63,152人(2011年3月11日時点で70,752人)
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  158人/km²
. . . . . . . . . . . . . . . . . . .  7,000人(うち2,665人は仮設住宅に入居)

南相馬市は、2006年に、鹿島町、原町市、小高町の3つの自治体が合併して誕生した、人口63,000人の市である。巨大地震に襲われたのち、数十分後に津波によって町は押し流され、およそ600人の人が犠牲となった。そして、さらにその後、わずか14kmの場所に位置する福島第一原発から放出された放射性物質の降下にさらされた。この町は、2011年3月に起きた悲劇の影響をとりわけ受けた町でもある。

行政対応による悪夢・・・

南相馬市は、事故後すぐに政府の指示によって、福島第一原発からの距離に従って複数の区域に分割された。小高は、発電所から半径20km以内にあり、避難区域に指定された。また原町および、鹿島の最南端の一部は、発電所から20〜30kmにあり、屋内避難区域に指定された。残りの鹿島区は区域指定をうけなかった。

2011年3月11日の大災害により、複雑な地形の南相馬市は都市部、農地、沿岸部でそれぞれ異なる影響を受けた。

放射線の問題は、帰還する・しないだけでなく、もっと多くのものがある

結果として、南相馬市の市民の大部分は避難せねばならず、南相馬市で第8回ダイアログセミナーが開かれた2014年春の時点で、66パーセントの住民しか帰還していなかった。南相馬市の避難区域はその後の改変を経て5つにわけられることになった。警戒区域、帰還困難区域、避難指示解除準備区域、特定避難勧奨地点、それから、なんの指定もない区域である。その地で暮らすには、悪夢のような状況であった。

・・・さらなる孤立と絶望

複雑に区域が分割されたことに加えて、外部から、南相馬への交通のアクセスも非常に難しくなった。津波によって常磐線の一部が流されてしまったことに加えて、半径20km 圏内は立入禁止となったため、常磐線も国道6号も使えなくなってしまったからだった。

分割線

こうした三重の被害を受けた人たちが、自分の人生を選択する覚悟と、未来に対する自信を回復することが簡単ではないことは、容易に想像できる。もともとは、人々を守るために設定された行政による区域分けは、そう意図したわけではないにも係わらず、地域社会を分断してしまった。そして、行政対応は区域分けに従って変えられたため、人々の間の不公平感を強めることになった。
特に、政府が指定した140カ所の特定避難勧奨地点は、それが顕著だった。特定避難勧奨地点では、賠償が得られるのは、指定されたわずか数軒の世帯だけで、隣接する指定されなかった世帯は得られなかったのだ。このせいで、本来は起きる必要がなかったはずの社会的分断が、地域社会にもたらされることになり、さらに、放射能のリスクや、汚染地域で子供を育てること、あるいは、先祖代々の習慣や伝統を保つことについての温度差から距離ができていた家族にまで、分断をもたらすこととなった。「専門家によってそれぞれまったく違う情報が発せられたせいで、放射能に対する怖さの感覚と、リスク判断は、人々の間でも大きくわかれてしまった。行政による放射能の線量情報も、信頼できないものと受け止められた。そして、住民は、自分たちが放置されているように感じ、誰が信頼に値するのか、そうでないのか、いまも決められないでいる。」南相馬で開かれた第8回ダイアログセミナー「南相馬の状況と現状と挑戦―南相馬でともに歩む―」の参加者の一人は、こう強調した。南相馬市民の間には、当時はまだ、不安と混乱と怒りが収まっていなかったものの、このダイアログセミナーには、120名以上の参加者があった。

福島ダイアログセミナーがもたらしたもの

第8回福島ダイアログセミナーの中では、ノルウェーの参加者から自分自身の経験の発表があった。チェルノブイリ事故によって影響を受けたラップランド地方のトナカイ飼育者である。また、いわき市末続や神奈川県からの参加者による発表は、放射能の影響を受けた状況を少しずつ改善し、外部の世界と被災地との関係をつなぎ直す方途があることを示した。ダイアログセミナーは、新たな可能性を開き、多くの参加者の中に、現状を乗り越えるための方法を見つけたい、そして、南相馬の状況をよくしていくことに関わりたい、という前向きな雰囲気が生まれた。この雰囲気を生み出したのは、街を立て直し、また、次の世代のためになにかしようとすでに行動を起こしていた何人かの参加者によってである。
このダイアログセミナーは、最後に、個々の放射線状況の特徴をよりよく理解するために、そして、個人と地域社会とでのどのような策をとる余地があるのかを知るための、個人に焦点を当てた測定プログラムについて勧告を出して、幕を閉じた。
それ以外の勧告としては、市民、専門家、そして行政の間の対話の場を設けることが提案された。対話の目的は、情報を分かち合い、町の将来像についての意見を交換するため、あるいは、その選択がどのようなものであれ、ひとりひとりの決定を支援するための体制をつくるため、あるいは、南相馬の暮らしの状況をよりよくしていくための地域活動に対する行政の支援のため、そして、町の継続的な発展を促すためである。

将来を見据えて- 南相馬の住民にいまだ残る困難

第8回ダイアログセミナーは、参加者が共に生きていくためのきっかけの役割は果たしたが、だからといって、魔法のように参加者の不安と不信を拭い去ったわけではなかった。このきっかけは、果たしてなにをもたらすのだろうか? 2011年3月に南相馬市から離れた住民の大半は、事故から3年が過ぎ、戻ってきた人も多かったが、終わりの見えない除染が完了し、安全な環境に戻るまでは、避難先に暮らしたいと望む人もいた。このような状況の中で、政府による希望者が早く戻れるようにするための政策は、行政が望むような選択を住民にせまるための方途であると感じられている。その一方で、地域の難しい状況は先行き不透明なままである。たとえば、職を見つけることは難しく、教育や健康維持制度は以前のように機能しておらず、もっと一般的に言えば、社会経済機能は混乱したままなのである。
自分が差別されていると感じている自尊心を傷つけられた人たちにとって、自分自身の尊厳を回復し、しっかりと自分の未来に向き合うことは、長く、そして険しい道のりだ。南相馬市を一旦離れ、戻ってきた若い男性のケースだ。彼は、ダイアログセミナーで、福島県外の婚約者がいたが、彼女の両親に自分たちの婚約を告げられないでいた。彼はまた、まだ見ぬ自分たちの将来の子供についても悩んでいた。子供たちは、南相馬で仕事を見つけることができるだろうか? 結婚できるだろうか? そして、地震、津波、核災害でバラバラにされてしまった南相馬の地域社会で、どのようにしたら共通の未来を作ることができるのだろうか?
これらは、いまも続いている課題である。

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伊達:
率先して行動するリーダーたち

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末続に目を向けて:
運命を自分の手に握る