あらたなる目標

食べ物の選び方、子供の育て方、農作物、そして商品作物の作り方、文化活動の楽しみ方…、放射性降下物を受けた地で暮らすことは、人生に見切りをつけることではないし、かといって、事故前に戻ろうと事故になかったことにして暮らすことでもない。それは、新しい羅針盤に従うことを意味する。日々の暮らしの主導権を取り戻し、冷静な判断を行い、その判断を共有するための。もちろん、この地点に達するのは簡単なことではない。しかし、福島事故後の暮らしの状況をよりよくしていくためのダイアログセミナーに参加した人々の経験は、そこへ至る道が存在することを示している。この道の出発点は、測定である

転機の訪れ

目に見えず、臭いもせず、感じることもできない。けれど、確かにそこに存在する。昼も夜も、家の外で内で、あらゆるところで、生活に指図を与え、望みもしない生活の仕方を押し付ける。この姿を見せない、顔のない敵と戦うにはどうすればいいだろうか? この目に見えない暴力的な存在を飼いならすにはどうすれば? そのためには、まずなによりも、顔を与えることだ。どこであろうと、なんであろうと、測定することが、それを可能にするのだ。
測定は、ただのひとつの選択肢ではない。絶対的に必要なことなのだ。状況に対応し、認識と実際の間のギャップを埋め、放射能を形のあるものにするための出発点なのだ。測定することで、被曝の原因や対応しなければならない状況を特定することができるし、それによって、安心へとつなげることができる。人の生活スタイルはそれぞれで、「平均的な個人」は存在しないため、ひとりひとりが自分の測定を行う必要がある。測定を行うことで、日ごとにそれぞれの個人データが蓄積していき、放射能レベルの変化を追うことができるし、また、その結果について家族や、隣人、それから専門家と話し合うことができるようになる。そして、それによって、地域社会の中で、対話を取り戻すことが可能となるのだ。

「放射線は目に見えないものですが、測定し、
それについて皆で話すことで、
可視化することができます」
— 安東量子

なぜ、そして、どうやって測定するのか

日ごとに、そうしたいと望む人にとっては、測定結果を記録することが生活の一部になった。そう、ちょうど食べ物や飲み物の消費期限を確認するように。子供から大人、台所から寝室、魚から米、すべてを測定する必要があった。山、田畑、庭、道路、駐車場、家、校庭、幼稚園、水道水、食事…。福島に住む人は、少しずつ、さまざまな測定方法や機器類に慣れてきた。

周辺の放射能を測定す
ることを学ぶ

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人々は、放射線量を1時間当たりのマイクロシーベルトで表示する2つのタイプの測定機器を使用した。可搬型測定機は、身近な環境(家、庭、校庭、山道など)の放射能を測るために使われ、また、環境中の放射線量を測定するために、固定式測定機(モニタリングポスト)網も福島県全域に設置された。

人々は、放射線量を1時間当たりのマイクロシーベルトで表示する2つのタイプの測定機器を使用した。可搬型測定機は、身近な環境(家、庭、校庭、山道など)の放射能を測るために使われ、また、環境中の放射線量を測定するために、固定式測定機(モニタリングポスト)網も福島県全域に設置された。

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自分たちの外部被曝を測定す
ることを学ぶ

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環境中の放射線量を測定する固定式測定機網が広範に設置され、現在では、福島市、伊達市、飯舘村、田村市など福島県内の多数の都市部や農地部の風景の一部となっている。

外部被曝は、「ガラスバッジ」と呼ばれる一般的な個人線量計を使って測定することができる。数ヵ月の間、1日中身につけて持ち、累積被曝量を測定する。例えば、伊達市は、ガラスバッジを市民に配布した。また、外部被曝は「Dシャトル」と呼ばれる電子線量計を身に着けても、測定することができる。これは、累積と同時に、1時間当たりの被曝量も測定できるものである。末続地区では、ほとんどの世帯でDシャトルを持ち、いつどこで放射線を受けたか知ることができる。

個人の被曝量を計測するタイプの線量計Dシャトルは、バッテリーが一年間もつ仕様となっている。これを身につけることによって、個々の被曝量をチェックすることができる。

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放射能によってどれくらい
内部被曝したのか測ることを学ぶ

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呼吸や食物、飲み物から体内に取り入れられる放射能は、ホールボディカウンター(WBC)と呼ばれる機械を使って測定できる。この装置が数多く、福島県内に配備され、2011年と2015年の間で累計で27万人の成人を測定することを可能にした。

早野龍五,
東京大学大学院, 理学系研究科教授

「本当に乳幼児を測定することが必要だったのか? ただの放射線防護の観点からみれば、必要ありませんでした。その一方で、お母様方の多くはお子さんの測定を行いたいとおっしゃっていました。けれど、それを可能にする機器はありませんでした。だから、2012年、私たちは子ども向けに特別に作られたホールボディカウンターの開発に着手したのです。」

Babyscan
ベビースキャン(乳幼児専用高精度内部被曝測定装置)
ホールボディカウンター(WBC)のもともとの目的は、原子力施設の作業員、つまり、大人の被曝量を測定することだった。このタイプの装置は、福島県の住民の内部被曝を測定するために使用された。しかし、乳幼児の内部被曝についての不安の声は、家族から常にあがっていた。親の不安の声を知った早野龍五教授は、東京大学の教授でありインダストリアルデザイナーである山中俊治氏にデザイン面での協力を求め、ベビースキャンを開発した。これは、 乳幼児の内部被曝量を正確に測定できる、世界初のホールボディカウンターである。この乳幼児に親しみやすくデザインしてある装置は、非常に低いレベルの内部被曝まで検出する。ベイビースキャンは、現在、福島県内で3台運用されている。2015年までに2,700人の乳幼児の測定が行われたが、検出限界以上の測定結果が出たことは一度もない.

50
ベクレルがベイビースキャンによる測定限界である。これ以下になると、体内に自然に存在するカリウム40由来のものなのか、セシウム134,あるいは137を摂取したことによるものなのかわからなくなる。しかし、大人用のホールボディカウンターの検出限界一人あたり250ベクレルに比べると、非常に低い検出限界である。

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食品や飲料を
測定することを学ぶ

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果物、野菜、肉といった食品の検体を測定するための使いやすい測定器も福島県の各地域で、使えるようになった。そのおかげで、ひとりひとりが、家庭菜園や山菜などの食品を測定できるようになった。

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データを集めることから、市民と専門家の対話へ

一方に測定があれば、もう一方には結果の解釈がある。測定機器を正しく使う方法を学ぶこととは別に、人々は、いくつかの測定の単位、検出限界の考え方、 また環境中の放射性物質の移行メカニズムについて、最低限の知識を必要としていた。測定結果は、それぞれの状況に固有のものであり、安全と危険の間に境界が存在しないため、慎重に取り扱う必要がある。しかし、それぞれの個々人が、いつ、どこで、どのようにして被ばくをするか知り、各自がそれに従って適切に行動することで被曝量をコントロールすることができるようにする放射線防護文化の発展は、知識だけの問題ではない。放射線防護文化は、日々の被曝と自分自身の主体的な生活について適切な判断をするために、ライフスタイルの重要性とのバランスをいつも考慮に入れている。
「自分や家族を守るために、今何をしたらよいのだろうか?」というような、一見簡単に見える質問に答えることでも、充分考える必要があるし、時にはガイダンスが必要となる。この点から、専門家のサポートを受けながら行われる住民の間(家族や隣人たちなど)での議論は、このプロセスの当然必要とされる部分である。ホールボディカウンターや食品の測定は、結果を提供するだけにとどまらず、人と人の間に対話を促し、人々の懸念に耳を傾け、子どもの健康について親たちにアドバイスを提供する、などの機会を提供する。たとえば、WBCについて、福島県立医科大学の放射線科医師の宮崎真と南相馬市立総合病院医師の坪倉正治は、測定の際に会う機会を利用して、住民と結果について話し合っている。

このグラフでは、地域全体の年間被曝量の状況が確認できる。

福島県立医科大学の放射線科医である宮崎真と協力し、安東量子や門馬麻衣子などが活動する末続地区では、地区全体のわかりやすいグラフを制作した。このグラフでは、色の異なる曲線のそれぞれが、一人ひとりの住民の被曝量を示している。

新しく見つけた自由

測定し続けている人たちの経験から、放射能レベルは、通常、予想よりも低いレベルであることが分かった。この結果は、心配をしていた人々にとっては大きな安堵をもたらした。測定結果は、疑いや心配を完全に払拭するものではないものの、減らす手助けにはなっている。測定結果によって、人々の記憶の中から、原子力発電所の事故が消し去られることはないものの、行政が出す「このレベル以下は大丈夫、このレベル以上はだめ」という二者択一的な指示に左右されず、放射能の観点から作物の良し悪しを選別することができるようになれば、きっとふたたび、将来にまなざしを向けることができるようになるだろう。一部の測定をしている人たちは、こんな風にいうことができるようになった。「年にたった2,3回、基準値を超えた食品を食べることをどうして心配しなくちゃいけないの?」

たとえば、放射能を測定して、お年寄りたちは大好きな山菜の中から、汚染度が少ないものを選んで食べることによって、喜びが得られるようになる。測定は、話し合い、比べること、それから、新しい関係と前向きな考え方を促し、日常生活の中で自分の身を守ることについて判断の自由を回復する、人間を中心としたアプローチを促すのだ。

かなしみの農作物

果物や野菜の生産、選別、梱包、輸送、販売に至るまで、細心の注意が払われ、農業が芸術といえるレベルに達している日本のなかでも、とりわけ品質の高い農産物で知られていた地域で農業を営むということことは、日々絶え間なく努力してきたことの証であり、長年かけて培ってきた誇りの問題でもある。避難区域に指定されていた田村市都路で農業を営む坪井久夫(60歳・事故当時)は、少しばかりかつてへの郷愁を漂わせながら、自分がどれだけ直向きに農業に取り組んできたか語った。「米の方はねえ、うちは大体4ヘクタールちょっとぐらい作って、野菜は少々作って、で、兼業でこの近くで畜産やってる方がいまして、そこに勤めていたんですよね。お米とか野菜はなるべく、農薬をあんまり使わないで、それを東京や関東の方に、宅配で送っていたんですけどね。30数名ぐらい、お客さんがいて、その方とやり取りしながら生活やってたんですけどね。」
坪井のように、よりよい農産物を育てることに人生を捧げてきた福島の農業者にとって、原子力発電所の事故の後、水田や果樹園の隅々にまで入り込んだ放射性物質は、理不尽なだけでなく、長年の仕事に泥を塗るものであり、先祖代々伝えてきた土地が突然汚染されるという衝撃的な出来事であった。福島県産のほとんどの農産物の出荷禁止が、そこに劣等感を加え、一部の生産者は廃業に追い込まれた。しかし、それでも、土地に残り、あるいは戻り、放射能と戦うことを選んだ人々もいた。

流れに逆らう

…飯舘村の農家、菅野宗夫(60歳・事故当時)は、そのうちの一人だ。事故直後の段階は、彼にとっても精神的に強い衝撃を受けた時期だ。田畑を放棄しなければならず、また、汚染された家畜をすべて処分しなければならなかったのだ。まるで、この世の終わりのようだった。
「この飯館村はですね、原発から約30kmから50km離れた地域にありまして、この地域に、風に乗って、ここまで、まっすぐ流れて来てしまったというような事です。それが、事故が起きてから1ヵ月後でありますが、計画的避難区域という事で避難生活を強いられてしまいました。事故当時はですね、44マイクロシーベルトを記録したという事で、外には出るな、出たならば土には触るな、というような状況でですね、まあ3月の上旬ですから、農作業が始まる次期でありました」と、菅野氏は語る。
一人の人間が受け止めるには、大きすぎることだった。日夜、精魂を込めて作り上げてきた長年の成果を失い、また一からやり直さなければならないのだ。つかの間、躊躇いはしたが、菅野宗夫は、農場をやり直そうと決めた時、深い心の痛みから立ち直らなければならなかった。この難局に立ち向かおうと、菅野は、NPO「ふくしま再生の会」と協力して、他のなににもまして絶対に重要な条件である、土地の除染から始めることにした。
「本格除染ということですね。この地域の再生の為に除染が入っておりまして、とりわけ家を中心とした住環境の整備ということで、家の周りの除染を去年いたしまして、今年から本格的に、その取り巻きの農地の除染、あるいは生活路線の、道路のですね、その周りの除染という事でここ2年くらいの間に行うことであります」と、菅野宗夫は続ける。

“我々が作る野菜が安全なのはもちろんだが、
おいしくなくてはならない.”

第7回福島ダイアログセミナーにて、地元のオーガニック製品の紹介。x

除染に加え、福島の農家は、根本圭介、溝口勝-ともに東京大学教授-のような科学者の手を借り、セシウムの稲への移行を大幅に減らす独自の実験を行った。何ヶ月にも及ぶ根気強いこの実験も、実を結びつつある。除染された地で育てられた米や野菜の放射線物質含有量は大幅に減少し、政府が設定した基準値である1キロあたり100ベクレルを大きく下回った。

消費者が動く時

日本国内の消費者のほとんどは、汚染された食品を摂取するリスクを心配し、 自分たちの食生活から福島産の食品を外すという選択をとった。しかし、その中にも、偏見をもたず、よく理解した上で判断するのに必要な知識を得るという、難しい道に挑戦した消費者がいた。
その一人が、横浜に住む3人の子どもの母親である山本司真(36歳・事故当時)だ。何を食べたらよいのか、その疑問に対する答えを見つけるために、彼女は放射線についての小さな勉強会を開いた。そこで彼女は、放射線の種類、放射性元素、放射性崩壊、被曝の考え方、汚染、健康影響などについて基本的な知識を得た。ゆっくりではあるものの確実に、科学者の力を借りながら、彼女は、料理作りから始めて、生活のさまざまな側面で安全なものとそうでないものを区別できるようになっていった。彼女は、夫や親戚の先入観にも挑戦した。たとえば、料理にキノコを使ってみて、彼女が家族に作る料理はすべて放射能の基準値を大幅に下回っていることを示し、しかも、味は素晴らしいものであること証明したのだった。
山本司真は、ツイッターで知り合った東京都在住の別の消費者である荒井多鶴子と一緒に、2012年7月の食品の問題に取り組んだ第3回福島ダイアログセミナーに参加した。そこで、農家の努力に大きな感銘を受け、福島の生産者が何ヵ月もかけて達成した品質の向上を証明するために、それぞれ自分たちが住む地域で動いたのだった。

生産者と消費者を結びつける

このように強い意志を持った生産者と消費者は、自分自身で行動を起こし、福島産の食品に安全性をもたらし、品質へのイメージを以前のようなトップの座に戻そうと努めたのだった。福島産というブランドに対する消費者の信頼を取り戻さなければ、米を一袋ずつ、野菜をひとつひとつ放射線を測定していっても、その目的を果たすことはできないのだ。それは、長く困難な戦いだった。JA新ふくしま、JA伊達みらいをはじめとする、得難い協力者たちからの支援を得て、日々の取り組みはスタートした。互助組織であるJAは、各地域で、保険、農業指導、信販、販売、購入、福祉事業のようなサービスを組合員に提供する組合事業を行っている。

福島県産の米が汚染されていないことを証明するために、出荷前に米を一袋ずつシステマチックにチェックする。この方針により、「福島産」の食品に対する消費者の信頼を少しずつ回復させるのが狙いである。

もうひとつの強力な協力者は、生産者と消費者をつなぐCOOP(コープ)である。コープふくしまの野中俊吉専務理事は、流通におけるこの消費者団体の力について、次のように説明する。
コープふくしまは、事故以来、また違うやり方で、「福島産」ブランドの支援をあらたに行ってきた。たとえば、消費者が測定機器の利用できるようにする、機器の使い方を説明し、結果をどう理解するか支援する、測定結果から放射能レベルが低下していることを伝える定期的な情報誌を発信するなどを行った。また、測定の結果、安全性が確認された福島産の食品を積極的に組合員に販売する、などである。コープふくしまは、生産者にとっても消費者にとっても力強いパートナーであり、透明性のある、信頼のおける情報を通じて、福島産の食品のイメージを回復する手助けをしている。

守られた環境

熱を出した自分の子供の様子を確認もしないで、夜眠る親はいないだろう。子供が初めて自転車に乗ろうとしているのを見て、ハラハラしない親もいないだろう。世界中の親たちのなによりの関心は共通している。自分の子供たちが、衛生的で安全な環境で育つという保証だ。しかし、放射能に影響された地域で暮らす人々にとっては、これに対しての懸念が頭を悩ませる問題として毎日に入り込んでくるのである。何を決めるにしても、「間違った選択をしたのではないだろうか」と心配しなくてはならないからだ。学校に歩いて行かせたら、息子の健康に悪影響を与えてしまうだろうか? 庭にできた果物を娘が食べたら? 知らないうちに、自分は子どもたちをリスクにさらしているのではないだろうか? 子どもたちの心身の成長をどのようにして守ればいいのか? どのようにすれば健康を保ってやれるのか? こんなふうになにもかにもがあやふやな状態で決定を行わなければならない状況は、しばしば、家族の中での親子間、父母と祖父母の間の争いの種になる。食べ物、学校、ゲームなど、すべての物事に関して、判断は違うからだ。
放射能の影響を受けた地域で生活することについて、安全かどうかの明確な指標がない中、親たちのなかに罪悪感が育ち、少しずつ憂鬱さを増していった。
このような状況を思い出しながら、第9回福島ダイアログセミナーの初日は、子どもたちの将来を心配する親からの疑問と、家族で住むのにふさわしい場所を見つける難しさに焦点が当てられた。そしてここでもふたたび、土地に残るか、離れるかという板挟みが、議論の中心となった。
3歳と5歳(事故当時)の2人の子どもを持つ父親石川哲也(40歳・事故当時)は、コンピューターシステム開発の技術者で、伊達市で家族と共に生活を送っている。彼は、福島第一原子力発電所の事故後の数カ月間の事をはっきりと覚えている。その時のストレス、不安、家族とともに福島を離れたいという気持ちと、家族を養うために働き続けなければならないという現実に挟まれた心の葛藤…。石川は、放射線の数値を測定し、適切な決定をする重要性はすぐに理解したが、しかし、ちょうどよい機器をすぐに手に入れることができなかった。
「測定はですね、当時線量計が全く手に入らなくて、結果的には5月過ぎてから線量計を買う事が出来ました。それから自分の自宅、あと周辺を測って、実際どのくらいの線量があるというのがわかってきました。」それまでは、まったく先行きの見通しの立たない2ヶ月間だった。

保護の負の側面

子供にとって状況は、いつも簡単ではない。これは特に、子供を放射能から守るために、屋内にとどまらせ続けるような状態になった時に、とりわけ当てはまる。子供たちは、たとえ何も言わなくても、親や家族の心配や疑問、ためらいをいちばん身近でしっかり見ているだけではない。子供たちを守ろうと思うがために、特に屋外活動について、禁止や規則を増やしていく親や教師たちの言うことを聞かなければならないのだ。これは、子供たちの社会生活を危機に陥れる。学校の友達とのつながりを保ち続けようとしても、屋外で自由に遊ぶことすらできない。自立性や人格形成に影響を及ぼすだけでなく、こうした状況は、身体を使って運動をする機会の大きな減少につながる。この傾向は、福島第一原子力発電所の事故前にも見られ、太り気味または肥満の子供たちの数は増加していた。事故後の屋外遊びの禁止が、この傾向に拍車をかけ、子供たちの健やかさを脅かしている。そのことから、第9回福島ダイアログセミナーに参加した公衆衛生・医療の専門家たちは、放射線に関連した観点からだけではなく、総合的な子供たちの健康を見守る仕組みを作る重要性を強調した。
子供達を屋内に閉じ込めておくことのもう一つのよくない影響は、子供たちを忌避すべき、不健康な存在であるように思わせてしまうリスクである。これは、福島に住む人々への差別につながる一因となる危険性がある。 「子供たちに、福島で育ったことを恥ずかしいと思ってほしくありません」と、ある母親は語っている。

放射線防護を育てる

親たちが自分の人生を生きるために、実用的な放射線防護文化を作っていく必要があるならば、子供たちにとっても同じではないだろうか? これは、親や教師が、今まで習ったことのない知識とノウハウを伝えなければならない立場にある、ということである。とても難しい仕事だ。適切な公式教材がないことや、実生活を反映した、より現実的で実用的な教材が必要であることを考えると、それはさらに難しくなる。この点に関して、第9回ダイアログセミナーの参加者は、それぞれの年齢グループに適した、日常で使える参加型の取り組みに基づく学校向けのプログラムと教材を開発する重要性を強調した。また、参加者たちは、子供たちが自分なりの視点で状況を理解していることを認識し、自分自身の感情を表現し、体験を話す場を設けるのがよいと指摘した。

第11回福島ダイアログセミナーにおいて調査結果を発表する菅野翔佳さん、小川葵さん、小野寺悠さんと学校の体育館に集まった同級生たち。

若い世代が一致団結する時

福島高校の菅野翔佳(2年生)、小川葵(3年生)、小野寺悠(3年生)は、福島第一原子力発電所の事故が発生した時、まだ小学生だった。事故に関連する放射線のリスクや、自分たちの身を守る方法については何も知らなかった。高校入学までに、彼女たちは、放射線の測定と、結果の理解について、知識を深めようと決めた。自分自分たちの被曝量と日本国内外の高校生たちの被曝量を比較しようと、彼女たちは、Dシャトルを使って測定をした。早野龍五(東京大学大学院理学系研究科教授)のような日本の専門家や、フランスの専門家に支えられながらである。
この3人の若者たちは、2015年3月、毎年フランスで1週間開催される高校生向けのイベント「国際高校生放射線防護ワークショップ」に参加した。そこで、彼女たちは福島で測った測定値とヨーロッパ各地の学生から集めた結果を比較した。また、彼女たちは、英語、フランス語、日本語、ポーランド語、ロシア語で出版される、さまざまな場所での測定値をまとめた論文の 執筆者メンバーの一員となった。

 

地域に根付いた芸能から夢を

おそらくどんなところで暮らしても、文化ほど、人と人、そして、過去と未来をつなぐものは他にないだろう。そして、祭りほど人々の精神をみごとに表現するものもない。歴史ある地域を復興しよう、人為的、あるいは自然に破壊された美術館や劇場などの敬うべき場所を再建しよう、あるいは、劇場や音楽の演目を蘇らせようと手をつくす人たちの存在が、この証明である。
福島第一原子力発電所事故は、祭りをはじめとするいくつもの文化的行事を中止に追い込んだ。地域社会はバラバラになり、住民の世代を超えるつながりが断ち切られてしまった。例えば2011年には地域の祭りの大半は中止となり、何百年も続いてきた地域の伝統、そして、地域社会への所属意識と一体感を断ち切ってしまった。
2014年12月6日、7日伊達市で開催された第10回ダイアログセミナー「福島における伝統と文化の価値」の参加者であるあまりさんによると、こうした伝統や地域社会とのつながりのほとんどを既に失ってしまった人々にとって、これはまさに悲劇と受け取られた。「事故の後、私たちは安心と安全にばかり関心を向けすぎて、未来について話すことができなかったのです。今、私たちは未来に目を向けられるようになりました。課題はまだ残っていますが、支え合いながら、私たちは暮らしていけます。そして、人々が再びお祭りに参加し、事態が変わっていくのを見るのは、本当に嬉しいです。」
事故から4年近く経ち、ほとんどの祭りが再開され、地域の住民や世代の間をふたたび繋ぎ、そして、誰もが、未来の自分について考えるために、過去の遺産から発想を得ることができるようになっている。「人々は、祭りを楽しんでいます。だから、多くの人々が集まるんです。お祭りは文化の根元にあるものなんです。」と、福島高校の生徒、片平なつみさんは指摘する。同じく福島高校の生徒である宍戸カンナさんもこの思いに共鳴し、次のように強調した。「踊りという芸術は、世代から世代へと受け継がれていかなければならないものです。人と人の間を本当に結びつけるものですから。」

福島県
の主なお祭り

7月23日~25日
相馬野馬追:
武者姿の騎士が馬を追う神事および祭り。

8月第1週の週末/
福島わらじまつり:
全長12m、重さ2トンのわらじを神社に奉納。

郡山うねめ祭り:
流し踊り行列

9月末
会津まつり:
会津磐梯山踊り、約500名による会津藩公行列 など。

10月
飯坂けんか祭り

10月1日~11月2日
二本松の菊人形

10月4日~6日
二本松提灯祭り

11月 第二土曜日
松明あかし:
松明が五老山の頂上を目指す。会場で松明は松明太鼓に迎えられる。松明あかしは、かつての城と運命を共にした人々の霊を弔うために行われるようになった行事。

伝統をあらた
に呼び覚ます
相馬野馬追が 2012年7月
に再開されたことが、
福島県の文化生活
における重要な一歩となった。
この年、警戒区域から来た11頭の馬が、
3日間にわたって開催される祭りを通して競馬、
お行列、神旗争奪戦に参加した。

福島ダイアログセミナー
開催中に太鼓演奏や演舞が行われ、
文化と伝統は生活の中に根付い
ていることがあらわになった。

にぎわいの復活

祭りが、人と人の間の生きた架け橋としての文化の役割の好例である一方、農村部の人々が大事にしている山菜のような地元の農産物もまた、親戚や隣人との特別なひと時を共有することに役立っている。ここでもまた、2011年3月の大災害が繋がりを断ち切ってしまった。それ以前は親しみある場所だった山林は、放射能汚染にとりかこまれた恐ろしい場所に変わってしまったのだ。しかし食品の測定を始めたことで、この状況は変わりつつある。人々は再び山菜を採り、味わい楽しむことができるようになりつつある。

生きる理由

テレビユー福島の報道制作局担当局長であり、熟練したサックス奏者でもある大森真は、音楽の癒しの力について話す。「2011年末、私は、福島市では大きな放射能の被曝の問題はないと思っていました。けれど、それでも不安を払拭することはできませんでした。被曝のせいではありません。周囲のほとんどの人たちが示す不安によってです。音楽を通して、私はそれを乗り越える方法を見つけました。人生を続ける楽しみ、生きる理由を見つけたのです。」これは、第10回福島ダイアログセミナーの参加者の多くが共有する意見だ。彼らは伝統と文化の力が、人々を一体にし、現在の世代を過去と未来に結び、困難な時にも人々を癒し、再び暮らしを築き上げる手助けをすると、強調した。避難生活を送った参加者の中には、自分たちの文化、神社、先祖代々の例が眠る墓から離れて過ごす悲しさを語った。事故の経済的な影響について意見の交換に対して、参加者の一人は、「お金よりももっと大切なことはたくさんあります。伝統と文化もその一つです。文化は、過去のものであるだけではなく、現在、そして未来にも継承されていくものなのです」と語り、年長者に伝統を若い世代に伝えるよう促した。「事故の後、新しい文化が花開いた」と、別の参加者は語り、福島で新しいものが生まれている兆しを感じさせた。

第三章

ふたたび未来を考える