福島の人たちにとって、未来はどのようなものだろうか。2011年3月より前の暮らしに戻ることはないだろう。今後、何十年にも亘って復興に取り組まなければならないほど、広大な沿岸地域が津波に流され、そして、場所によっては、同時に放射能による影響を受けたのだ。地震、津波、原子力発電所の事故、これら福島県を襲った一連の大災害が、人々の心に癒えない傷を残したことは、間違いない。もし、この災害が起こらなければ、どうなっていたのだろうか。
故郷から追い立てられ、「いつもどおりの暮らし」から切り離された人々が、日々の心配から解放され、未来について考えることができるようになるのは、何ヵ月、そして何年も先の事だ。
しかし、ただ不幸を受容するのではなく、それよりも強いなにかの存在が、一部の人たちを前へと進ませた。4年後、彼らは明日について考える力を取り戻した。水平線に、それまでとは違う未来が現れたのだった。新しい未来のかたちは、過去数年の経験、相互理解と信頼、自由な選択、希望と夢とを土台とするものだった。壊れた発電所がもつ潜在的なリスクに、用心深く目を光らせることが、未来を下から支える。一部の人たちは、万一の場合に備えて、今後も線量計を引き続き持ち続けることを考えている。

希望と夢は、日々の暮らしの経験から育まれていく。自然を見つめ、よい仲間たちと食事を楽しみ、子供たちが外で笑いはしゃぐ声、文化的な行事やお祭り…。風景の美しさ、食べ物のおいしさ、強く息づく伝統、福島の人たちは、自分たちのふるさとへの深い愛情を四季折々の写真を通して、表現してきた。

分岐点

除染、復旧、復興に膨大な労力が払われているにもかかわらず、福島の浜通りなど、いくつかの地域の状況は、平常とは程遠い。それは、その地域の見通せる限りの未来についても同様だ。しかし、事態は進んでいる。ダイアログに参加したほとんどの人は、自分たちの生活を取り戻すことを、ごく当たり前に考えられるようになっている。「活動している人たちは、ようやく自分を表現し、自分が何をしているかを説明できるようになりました。」 ダイアログセミナーの参加者のひとりは、そう強調した。「福島県の人たちは、ある程度自信が戻ったような気持ちがします。」と、丹羽太貫は分析している。この傾向は参加者も指摘したように、ダイアログセミナーを重ねるごとに、はっきりとしてきた。一方で、別の参加者は、「ここにいる多くの人々は前向きです。でも、いまも難しい状況で、前を向けない人たちのことも忘れてはいけないと思います。」と、釘を刺した。

「新たなる発想と新たなる対策、ビジョンを持ってやっていけば、世界に例のない素晴らしいものが出来るだろうと思います。そのチャンスを私は与えられたと思っています。」
菅野クニ 保健師/農業 飯舘村

子供たち

子供たちは、未来の象徴であるがために、もっとも憂慮される問題となる。また、子供に対する気がかりが、現在のさまざまな取り組みの大な原動力となっている。しばしば、子供たちへの教育が、家族の中での意見の違いをさらに際立たせることもある。子供にベストなものを、と望む親にとって、教育はいちばん大きな問題だ。福島に暮らす人たちにとって、これは、本当に悩ましい懸案事項になった。健康、教育、人格形成、子供たちの生活のあらゆる場面で、自分たちは子供のために本当に正しい選択をしたのだろうか、という疑問が、親たちの心の中に浮かんでしまうのだ。おそらく、子供たちの毎日の生活のために参考になる情報を求める親にとっては、子供に関する専門家と放射線防護の専門家との対話は、他の地域以上に重要になるだろう。2011年3月の個人的、集合的体験から、福島に住む家族たちは、環境の伝承には、特に意識を高く持っている。「自分が諦めたら、息子には、選択肢そのものがなくなってしまいます。」 第9回ダイアログセミナーに参加した遠藤眞也は、そう述べた。もし、自分が原発事故を理由に、先祖から伝わってきた田の耕作を放棄してしまったら、息子には、将来、農業を続けるという選択肢が残されなくなってしまう。遠藤にとって、農業を続けることは、過去から未来に土地を手渡し、伝統を守ることである。これは、その重要性についての証言である。

建設中の復興住宅
2015年末続駅のそばに新しい住宅が建った。津浪で被災した末続地区内の人たちが新しく移り住む復興住宅である。

末続での新しいプロジェクト

いわき市の沿岸部は、2011年3月、震災とそれによって引き起こされた津波によって重大な被害を受け、建物やインフラは破壊された。今日、この風景の中に新しい建物が現れることで災害の痕跡が薄まりつつあり、未来を信じるコミュニティの人々が正しかったことを示している。地元住民らが発行する情報誌『すえつぎだより』は2015年11月号で、この地区での様々な工事の進捗状況を報告している。

津波被害を受けた沿岸部の再建が進む

河口の堤防建設工事が進んでいる。津波から土地を守る堤防が間もなく完成する。また、津波で壊れた末続橋の後に、河の両岸を結ぶ強化された新しい橋が作られた。

地域社会

安定した社会基盤に守られてきた国の中で、家族と地域社会がばらばらになると、諦めの気持ち、そして、見放されてしまったという感覚が、強まっていった。それでも、時間が経って、いくつかの取り組み-測定や測定データについての話し合い、専門家との集まり、知識を得る、意思決定、得た成果についての情報、そのフィードバックなど-を通じて、自分たちの暮らす場所をよりよくしていこうという機運が高まってくるにつれ、地域社会の中でも、協力していこうという熱意が少しずつ強まってきた。
震災以降、お互いを助け合い、そして、地域社会の外の人たちとも経験を共有しながら、素晴らしい仕事をなしとげた福島の人たちの数は、増えている。人々は、地域社会の中で支え合い、自分たちの暮らす環境をよくしていっている。それぞれが、楽観的であろうとも悲観的であろうとも、騒がしくとも静かであろうとも、各自の個性を認め、それぞれの自由な選択を尊重する。これは、価値観とやり方の違いを認識することであり、相互理解の根本原則である。
だが、いくつもの場所にちりぢりになってしまった地域社会を存続させることは、多くの自治体がこれから取り組まなければならない、とりわけ大きな課題だ。このような状況で、未来を、ともに考えることはできるのだろうか。

2015年9月13日、伊達市役所。「私たちが共に得たもの」というタイトルで開かれた、第12回、そして最後となるダイアログセミナーが終幕に近づいた時、会場は高潮した雰囲気に包まれた。放射線安全フォーラムの理事、多田順一郎と共に、全12回のダイアログセミナーの議長を務めたICRPのジャック・ロシャールが、参加者たちに別れの挨拶を述べた。農家、主婦、役所の担当者、報道関係者、放射線科医、写真家、自治体スタッフ——彼らは、放射能の影響を受けた地域で暮らすことが孕む困難さを克服するため、そして、まずなによりも、福島に住む人たちの力となるために、それぞれのやり方で、4年間の取組を支えてきた人たちだった。別れの挨拶の瞬間、誰もが気づいたのだった。過去4年にわたって、共に築いてきた進歩がどれほどの大きさだったかを。一緒に経験した人間的冒険を通じて為し得たことを、共に行ってきた仕事のかけがえのなさを。参加者は、これらをはっきりと感じ取り、そのことが感情を高ぶらせたのだった。
他人に迷惑をかけないことを美徳とし、全体的な調和をなにより重んじ、問題について口をつぐむことがよいこととされる社会の中で、ダイアログセミナーは人々に、不安、怒り、疑いなどの感情を解き放つ場を提供した。そこでは、問題について相異なる意見を表明し、直接、専門家に質問を行い、提案にすぎなかったものを前に進めることができる場だった。そして、その過程で、どうすることもできない状況を前に、ただ見ているだけだった人が、前向きなステークホルダーに変わることができる場だったのだ。
2011年11月から2015年9月までの間に起ったことは、生きた民主主義の実例である。そこでは、地域社会は、受け身の指示待ちの群衆ではなく、自分たちのために自由意志に基づき、他者のために相互の信頼、それと同時に、敬意に基づき、意思決定を行える個人の集まりであるとみなされた。参加者の人生を変えた参加型ミーティングの最後の幕が下り、ダイアログの参加者たちは、いま、それぞれ違った形ではあるが、未来をこれからも続いていく改善の過程として考えるようになった。参加したのは限られた人数と地域社会であったが、ダイアログは多大な経験を蓄積した。そして、それを共有する時がやってきたのだ。

生活への全体的な影響

最初に学んだことは、放射能の問題は、たんに被曝による健康影響の問題だけなのではない、ということだった。放射能が生活に侵入することの影響は、現実において、そして心理的にも、突然コントロールを失うということである。自分はどうすればよいのか、あるいは、するべきでないのか? 外出、帰宅、換気のための窓の開閉、飲食、子どもの外遊び、通学——こうした、日常のあらゆる些細な出来事を、常に疑わなくてはならず、これが不安と孤絶感のほとんどの原因となる。時間が経つにつれ、このことは、自信を失い、また相互の信頼、とりわけ行政と専門家に対する信頼を失った人たちの中に、緊張した関係を生み出してしまった。「汚れた」環境に住んでいるという感覚と、汚染「されてしまった」という感覚が、自尊心の喪失という形で現れたと言えるだろう。放射線状況を改善するためにとられた措置(除染、立入禁止区域内への通行禁止、食品の摂取制限など)は、同時に疎外感を強める結果をもたらし、こうした感覚を悪化させた。というのは、汚染「されてしまった」という思いは、さらなる分裂を生み出しがちだからである。土地を離れることに決めた人々、もしくは離れざるを得なかった人々にとって、放射能は自分たちを土地から追いやった闖入者と感じられた。自分の人生が根こそぎにされてしまうという、言葉にならない苦痛、そして、現在もなお続く板挟み、「戻るのか、戻らないのか?」

誰もが何かをすることができる

福島第一原子力発電所事故による放射能汚染は、ほとんどの住民を混乱に陥れた。しかし、それは、他の面では、人間のひとつの局面をはっきりと示した。関わりあいを持とうとすること、リーダーシップをとろうとすること、地域社会のために行動をとろうとすること、そんな特性である。複雑な状況に直面した時も、こうした決然とした態度によって、住民、地方行政、助言を与える専門家の間の連携した取組が可能となり、前へ進んでいく道も見いだされた。伊達市のような一部の地域では、地方行政によって、その機運が作られた。末続、筆甫(宮城県丸森町の一部)といった別の地域では、住民自身が先陣を切った。両方のケースで住民の現実の懸念に対応するには、様々な背景を持つ専門家の支援が必要だった。そうした専門家の多くは、組織の代表としてではなく、個人として係わった人たちだった。この特有の状況が、住民と、時間をかけて支援した専門家たちとの間に信頼を築き、まるで共同体の一員であるかのような絆を作る鍵だった。

現場とネット:前進するための両輪

福島の住民が自分たちの生活を取り戻すための拠り所となる情報源の象徴として、「福島のエートス」は前輪が地面にしっかり着き、後輪がインターネットに乗った自転車のイラストを描いた。荷台に載せた専門家の知識は、自転車のハンドルを握って運転する住民からの質問に答えるためにここにある。

装飾はいらない。ただシンプルに。

住民と専門家の「対等の立場」で行うダイアログは、福島の人々が新しい指標を見つけ、生活を再構築するための手助けの一歩となった。この対話のきわだった特徴は、「住民を中心にした」ものであることだ。つまり、福島の人たちが必要とするものを中心として、住民と専門家の関係を作っていったのだ。専門家の中には、人々のもつ懸念をさらにしっかりと共有するために、福島に拠点を移した者もいる。これは、人々がなにを必要とし、なにを期待しているのかを摑むために、すばらしい視点を持つことを可能にした。学んだこととしては、放射線被曝に関するリスクと影響について話し合うことの難しさが挙げられる。住民たちは、専門家に対して謙虚であること、科学と意見の間に区別を付けることを求めた。そして、なによりも、個人の価値観と選択に敬意をはらうことを求めた。なぜならば、現在の知識には不確実性と限界があるからだ。最後に、住民たちは、放射線から身を守る方法は、直面する問題の1つでしかないことを理解してもらうことを求めた。放射線防護は、ここでは人々の生活を支配することではない。それは、人々が、自分たちの生活を統御する手助けなのである。

共有すべき専門知がここにある

ダイアログで学んだ重要な教訓は、既存の公式を使うことでは、人々の抱える本当の問題に対しては、ほとんど助けにならないということだ。住民が日々取り組まなければならない課題に、効率的に対処するためには、専門知を構築するプロセスを協働して作らなければならない。つまり、まず専門家が、困難な状況に向き合っている人たちが抱える問題や、懸念、課題、期待に耳を傾け、話し合う場を作ることである。また、共有された専門知、あるいは、“共有知”は、地域社会の状況や人々の事情を、地域住民と専門家が一緒に考えることによって、作り上げられる。地域の専門家や行政からの支援のもと、そこに暮らすひとりひとり、あるいは地域社会にとって、いちばん重要であると思われる問題に対応するため、計画を策定し、実行した結果を見直し、さらに、そこで得られた経験を広めるのである。

「住民のために官庁が図面を引く」状態から「住民とともに官庁が図面を引く」状態に転じるには時間がかかる。

ともに生み出された「実用的放射線防護文化」

具体的な問題に対応するための専門知を共有することを通じ、ダイアログセミナーに参加した多くの人たちは、少しずつ放射線から身を守るために実践的な対応方法を編み出した。これは、利用できる適切な機器を使い、自分たちで放射能を測定し、空間線量、内部被曝、外部被曝、食品測定などの新しい語彙に慣れていくという取組みだった。日常生活とは馴染みがなかったこうした語彙に、測定結果を理解するために、一夜にして慣れなくてはならなくなったのだった。実用的放射線防護文化を作ることは、専門家の助言を得ながら、自分たちで測定結果について話し合い、それによって、家族や地域社会など、ひとりひとりがそれぞれ決断し、自分自身を守るようになることだ。自分で決めことがふたたびできるようになるにつれ、ダイアログに参加した福島の人たちの多くは、ベラルーシで行われたのと似たやり方で、具体的な取組をひとつずつはじめた。ベラルーシとの大きな違いは、放射線の状況を知るために測定機器を利用できること、それから、情報共有で果たしたソーシャルメディアの役割である。
効果的なものはいくつもあったが、中でもとりわけ、放射線防護文化の実用性は、放射能の影響を受けた地域で、暮らしの状況に目に見える改善をもたらすと同時に、再び未来に目を向けさせる力を与えたのだった。

最後に、

4年間にわたる議論と経験を、いくつかの教訓としてまとめることは難しい。しかし、全12回のダイアログセミナーを通じて共有された経験は、チョルノーブィリ原発事故の影響を与えられたベラルーシとノルウェーなどの地域での経験から得られた 、核となる教訓を裏付けている。
住民自身による放射線のモニタリングと、専門家との対話が、自分への自信と、他人に対する信頼を回復させるための重要な要素になるということ。さらに、専門家にとっては、体験と感情を共有し、定期的に人々とやり取りをすることが、人々からの信頼をえるための要となること。科学的な知識の共有だけでは不十分であること、である。さらに、人々とコミュニケーションをとること、同じ共通の言葉を用いること、長期的な取組を実施することが、住民との共同作業を成功させるための重要な要素である。
最後に、得られた重要な教訓は記録に留められ、福島県内に、そして、福島県を超えて広げられ、世界のどこかで同じような状況が起きた時に、ただちに利用できるようにするべきである。

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